漂う手紙

生活と思想。遺書とラブレター。時に真似事。

夕暮に惑う

 

私の生家のトイレ。

そこはいつも夕暮である。

居間から納戸と硝子窓を隔てた長い廊下を通る。常に開け放しの木戸を越して右に見えるのは、片面が硝子窓で照らされた短い廊下、その突き当たり、そこがこの家のトイレだ。

如何にもといった女子と男子とがそれぞれ別の個室として備えられた昭和の和式トイレである。窓もそれぞれ一枠ずつ。

壁面上部は鮮やかに燻んだ青で塗られ、下部はヒビの入った白いタイルが貼られている。所所剥がれ落ち、素のコンクリが覗いている。

床面はもともとその色であったのか、色褪せただけなのか、赤褐色のマドリッド風タイル模様を誂えたビニール製の床敷。

そして、汲み取り式であったものを水洗に改装した古い和式の便座。白い陶器の便座。タンクも同様の陶器で、そこから便座へ金属製のパイプが伸びるが、何分古いもので夏場結露すれば水滴はそのまま滴り落ちる。言わずとも真菌の温床である。

ペーパーホルダーのカバーはいつから取り替えられていないのかいつも同じもので、柄が入っていたのだろうと推測する程に痕跡的で、色褪せほとんど真っ白である。

上には後から付けられた裸電球。

時折壁を蜘蛛が這う。

この様相だけでも、私には十分時が止まったような淋しさを感じてしまう訳であるが、ここ最近張られた窓硝子が、より夕暮の物哀しさを引き立てている。

以前までは障子張りであったところを、先の暴風雨により水害があったため、修繕の機会に硝子に張りかえたのだ。

この家は明治の時分から引き継がれた所謂古い日本家屋で、私が生まれた頃から既に隙間だらけ、通気だらけで、このトイレも例に違わずほとんど外に居るのと同じようなものだ。

その障子も破れてから貼り直されずどれだけ経ったのかも分からぬ程で、厳しい冬の間も仕切の役割などなく容赦無く寒風が吹き込んでいた。

漸く外と内を隔てる体を成したと喜んでいた訳だが、窓枠にはめ込まれた硝子は一般的なものとは少し様子が違う。

大抵の窓に使われる硝子は先の技術革新により、曇りの無い透明なもので緻密に平らである。

よく手入れし磨けばそこには何も無いと錯覚する程だ。

にも関わらず、その窓に使われた硝子は淡いセピアカラーと言えば聞こえは良いが、完璧な透明とは程遠く、しかも表面が波打っている。

おかげで庭の木々草花は歪んでいる。

こんな硝子今時手に入るのかと思ってしまう程の品質である。

またその燻んだ色により、澄んだ朝陽だろうが照りつける陽射しだろうが凡てを朱く褪せた夕陽にしてしまう。

時の止まった内装を夕陽が照らし、そこは常に夕暮となる。

汲み取り式の過去を持つ和式トイレは主屋から短い廊下を挟んで離れになっている。トイレの個室へ向かうにはこの廊下を必ず通らねばならない。

廊下の窓はトイレよりも一早く硝子が張られ、さらに透明で平らであるから外の光は干渉されずそのまま入り込む。

廊下は他の場所と変わらず照らされた現在の時間が流れている。

その廊下を通ってトイレの個室へ足を踏み入れた途端、そこは夕暮になる。

突然スリップでもしてしまったような現実を揺るがされるような不思議な感覚に囚われるのだ。

ただ用を足しに行っただけなのに。

何とも言えぬ不安に駆られ、夕暮の淋しさに掻き立てられ、落ち着きなく用を足す。

そこを出れば朝だか昼だかまた現在。

夕暮の燻んだ光と打って変わって現在の光は清々しく私を照らしているが、その対比のおかげで余計に焦燥感を掻き立てる。

自分の根底を覆す程に。

不安定な足取で廊下を辿る。

早くあの落ち着いた居間へ帰りたい。

ただ用を足しに行っただけなのに。

その都度惑わされては堪らない。